彼が

 呉高専に合格した。
 めでたいことである。教室が自習者でいっぱいだったので、塾の外で、その報告を聞き、握手し、肩を抱き(道行く車から見れば、さぞ異様なふたりであったろう)、喜びをわかちあった。
 「こんな暮らし方をしていて、合格できたのは、すべて先生のおかげです」とニッと笑いつつ語る彼の言葉を、全部、真に受けるほど僕はお人よしではない。が、しかし、その意味するところを、ただしく理解できるのは、僕と彼と二人しかいない。
 「こんなにあっさり合格するなんて、思ってもいませんでした」
 「ふむ、君はそう思うかもしれないが、僕にはわかっていた、君が本気を出せば、、、」
 そう、彼のもっている能力、特に数理系の認識能力は底知れぬところがあった。また、国語の読解力にもじつに洗練されたところがあった。唯一の難点は、漢字や英単語をコツコツ覚えること、読むことはできても、書かせるとろくなことにならなかった。そして、また、徹底して努力を嫌った。一年のときは、少し怠けている程度だったが、二年になると磨きがかかり、三年になると努力嫌いがコンプリートされて、手の施しようがなくなった。まず、ふつうなら、罵声とともに放逐されて仕方のないところであったろう。
 しかし、彼にあわせてファウルラインの角度を広げた。僕の許容範囲を拡張し続けた結果、最後には、存在そのものを丸ごと受け入れ、好きにやらせてとにかく受験に漕ぎつけた。無論、何回か試した過去問演習で、彼が、不得意な英語で苦戦しつつも他の教科で、必要にして十分なカバーリングをおこなえることはわかっていたから、焦りも不安もなかったのだし、あらかじめ、そうなることは、各種の模試の結果であきらかであったから、そもそも僕の方からすすめて受けさせたのだった。
 努力しても努力しても苦戦し続ける子もいれば、彼のように、好き放題やって軽々と第一志望を、本人すらあきれるくらい簡単に合格する子もいる。やれやれ、どちらが間違っているわけでも、どちらが正しいわけでもない。まじめな生徒はまじめに受けるべきだし、ちゃらんぽらんな生徒は、ちゃらんぽらんなりにやればよい。受験勉強を通して、資質を向上させることができれば一番良いが、精神修養に走ってばかりいては、物事はすすまない。現実的に、達成感をあたえることで、自信をつけさせ、次のステージで、またあらためて自分自身を見つめなおす機会をもつことも許されて良いのではないか。
 これしかない、という方法論よりも、あれもあるし、これもある、という思考の枠組みをもつことが、子どもらを素直に伸ばすことになる、と思ってきたし、たぶん、これからも、そう考えるだろう。型にはまることも、はめることも、僕は嫌いだ。そうは言っても、いたるところに、レッキズムと呼ぶしかないような、主義主張の濃いところがLECにあるのは確かなのだけれど。