6月!

 ということで、気分も新たに各クラスともガンガンやった。
 どうして暦の上で月がかわったぐらいで、気分一新するのか、そんな単純な精神構造でいいのかって、お叱りを受けても仕方ないとは思うけれど、気分は気分、理屈じゃないってことで勘弁してください。
 ★小4 計算の手順を練習。逆算で苦戦。式ひとつひとつを、「お買い物」の物語にして、具体的にイメージさせた。反応が少し向上、しかし、劇的に良くなる、というほどでもなくて、ちょっと辛い。ぼちぼちいきます。ただし、また、今年も例年同様、二桁÷一桁を筆算でやろうとする子にはストップをかけて暗算するように命じた。筆算に走る子=「数感覚」が鈍い子、と決め付けてはいけないのだろうけれど、どうもなぁ、やたらと筆算をしたがる子が多い気がして、気に入らない。「数」の扱い方が上手な子、例えば、すぐに最小公倍数や最大公約数を見つけられる子は、皮膚感覚レベルで「数」を感じているような気がする。「数」のイメージが豊か、と言い換えてもいいかもしれない。

 ごめんなさい、この項、明日、続きを書きます。
 きょうは、もう、ダメ。

ということで、一夜明けて。

 「数感覚」の続き。
 「言語感覚」は、子どもの「感受性」と結び付けられる形で、子どもを評価する指標として耳にすることが多い。それは、子どもの言語表現を観察し、考察すれば、誰だって、容易に指摘し、それなりのことは言えるから。よくあるステレオタイプの評価は、「近頃の子どもの言葉遣いはなっとらん」から始まって、「言葉の乱れ」=「表現能力の低下」=「コミュニケーション能力の喪失」=「生活体験の希薄化」=「人間関係の不毛」と続く。それ自体に反論する気はない。確かに実感する部分は少なくない。ただ、それは現代人にすべからくあてはまることであって、何も現代の子どもに特別あてはまる話ではないような気がする。程度問題にすぎないと言えよう、中には素晴らしく言語感覚の研ぎ澄まされた子もいるし、中には恐ろしく稚拙な大人もいる、いつの時代だって、たぶんそれは変わらない。むしろ、無自覚に子どもを批判し、自らを省みることのない、独善的で劣悪な言語感覚をもつ大人の撒き散らす害毒(特に子どもに対する悪影響)の方が罪が重い、と僕は思う。
 話をもとへもどそう。要するに子どもの「言語感覚」は、目に付きやすく、耳にはいりやすいから、よく話題にのぼるけれど、「数感覚」は、問題にされることが少ない。いや、まったくない。しかし、困ったことに「言葉の乱れ」と同じくらい「数理的思考の乱れ」も激しくて、20年ほど前には、一般的に思われていた「数感覚」と、今の子どもらが共有している「数感覚」は、かなり異なっているように思われる、ということだ。
 あくまで、僕個人の主観で、客観的な裏づけは何もない。職業上の横のつながりも皆無に等しいから、他の塾の人たちがどう思っているかも知らない。でも、何か子どもらの「数感覚」と呼ぶしかないような、数を扱うときの原初的な感性が劣化し、計算下手が増え、数量の把握の仕方が危機的に合理性を欠いている子が増えてきているように思う。
 とかなんとか言うと、「学力低下」という言説にからめとられてしまうけれど、例えば、基礎学力向上の象徴としての「百マス計算」が「数感覚」を向上する一手になるかというと、違うような気がする。機械的な反復練習を行えば、計算スピードは向上するだろう、反射的な反応速度は確実によくなるだろう、筆算依存症候群と呼ぶべき子どもらも減るかもしれない、それは「○○式」の反復ドリル演習についても同じことが言える気がする。
 しかし、「数」と「数」の関係性を直感的に把握する皮膚感覚と、パターン認識された記憶の集積としての計算能力は、異質なものであるような気がする。昔の子どもらが、みんなパターン認識を積んでいたか、というと、そんなことはなかった。ソロバンもすでに隆盛をきわめていた時代を過ぎていたし、小学校の計算ドリルを熱心にやった記憶もない。でも、そこそこの暗算能力はみんな当然のようにもっていたし、やたらと筆算に走る子も少なかったように思う。

 曖昧な記憶、断片的な体験を絶対化し、自分の思い込みを強引に正当化する「オヤジの小言」めいてきたから、もうやめます。とりあえず、計算を上手にやろうねって、ことで、LECルールを整備したい。