雨と小6スクランブル

 小6の男子生徒3名にスクランブル(緊急強化演習)をかけている。連休明けの懇談で、保護者の方々と懇談して決めた。今朝も朝から来てやっている。4月の学力テストの結果と5月の自己採点を比較検討して、強力な介入で学習量を下支えし、目的達成意識を純化する必要があると判断したからだ。年々、中学受験指導の仕掛けが早くなる。ひょっとすると手痛い経験が僕を過度に臆病にして、強迫神経症に陥り、大局観を失って刹那的事象に振り回されているのかもしれない。主観的には、達成水準をより高くしたい、というごく自然な思いしかない。毎年同じことをやって同じ結果に満足できるほど、達観した境地に達するには若すぎる。自分のやっていることを独善的に肯定し、自己満足に耽ることができるほど若くもない。蓄積された経験が安易な自己肯定を邪魔をするし、心深く残っている、触れることをはばかられる痛みは、安穏とした日常を狂おしく拒否する。
 さりとて、あふれ出す感情の奔流にまかせて突っ走る愚かさは、すでに幾度も経験した。調整のとれたかかわり方が、自他のもっとも持続的成長を可能にすることは、苦い体験を通して学んだ。そして愚劣な行為も忘れることのできない気持ちを捨てずに持ち続ければ、洞察力の不足と聡明さの欠如を補う源になることを知った。
 だからこそ、このいまいましい現実を受け入れ、うんざりする自分と付き合いながら、わずかばかりの希望を消すことなく、子どもらとかかわっていくことができる。願わくば、僕の最良の部分で彼らと関わることができればよいのだが、しばしば、最低最悪の部分が露出していることは、誰の目にも明らかだ。
 雨の日、車の走行音がいつもより低く大きく響いている時、自分の足元が揺らぐような感覚に襲われる。そんな暇があれば、彼らに一問でも解説する時間をとるべきだし、夏期講習の立案を急ぐべきだし、来週から始まる中学生の懇談の準備をするべきだし、立替教材費の4月分の資料をまとめるべきだろう、手際よく仕事を片付け、生産性を向上するべきであろう、巷の自己啓発やビジネス書にはそう書いてある。
 やれやれ小人閑居して不善をなすか。嗚呼。