「パール・ハーバー」 と

 言っても、さほど感慨はない。戦争の記憶が風化している、とお叱りをうけるかもしれないけれど、65年前の、直接日々の生活に関わってくる事柄じゃないことに深い感慨を抱くのは難しい、と思う。趣味で言う人がいても止める気はしないけれど。 
 ただ、「真珠湾」と書くか、「パール・ハーバー」と書くか、ちょっと迷った。使用した表記で視点が微妙に異なるように思った。合衆国の人々にとって、「リメンバー、パール・ハーバー」は「真珠湾を忘れるな」に必ずしもならないように思う。
 例えば、広島への原爆投下を語るとき、核兵器の問題点を普遍化しようとする人々が、「ヒロシマ」「ナガサキ」「ヒバクシャ」というカタカナの表記を敢えて使う事例に接することが多い。そうした表現に、僕は何か違和感を感じる。アピールの正当性をことさら強調する、邪な臭気を感じる。高校生ぐらいの子どもがドラッグストアで買ってしまう安手の香水の下品な香り。「広島」「長崎」「被爆者」で事実を普遍的に伝えることはできる。主張の正しさは、正しい論理を用いればよい。カタカナにかえた表記には、論理よりも情念を重んじる湿気を感じてしまう。僕の中にあるミリタリーセンサーが、「真珠湾」→「奇襲」→「成功」→「華々しい勝利」と反応し、「パール・ハーバー」→「不意打ち」→「卑怯」→「自滅のはじまり」と単純に二極分解するところは確かにある。ただ、それとは別に、言い換えられた言葉がとりこぼすものの中に、本質がふくまれることが多いのではないか。
 当時の平均的な日本人にとって、ハワイは「布哇」で、パールハーバーは「真珠湾」であったろう。日本人が心に留めるべき1941年12月8日は、「真珠湾」が民族の記憶として正しいかもしれない。しかし、まさに、その民族的な視点に潜む情念性がひっかかる、というわけ。だから、12月8日に、「トラ!トラ!トラ!やぁ」と叫ぶ人がいてもいいとは思う(許容範囲内でしょう)けれど、「真珠湾攻撃の日」と聴くと、ピッと反応してしまう。それは8月15日に感じてしまう、重苦しい気分と裏表かもしれない。アメリカの小学校で使われている(いったいどこの州の、なんていう町なんだっていう疑問はあるのだけれど)教科書から、年表の表記を借りて適宜抜粋してみると、

 
 1941 December 7  Japan bombs Pearl Harbor, Hawaii
 1942 June 4-6 Allies win Battle of Midway in the Soush Pacific
1942 August 7 U.S.Marines land on Guadalcanal in the Solomon Islands
1943 November 22 Allies capture Tarawa Island in the Pacific
1944 June 19-20 U.S. wins decisive air and naval victory in the Philippine Sea
1945 March 16 U.S.Marines capture Iwo Jima in Pacific
1945 June 22 United States captures Okinawa in Pacific
1945 August 6 United States drops atomic bomb on Hiroshima, Japan
1945 August 9 United States drops atomic bomb on Nagasaki, Japan
1945 Sepember 2 Japan surrenders
 

となる。8月15日が、日本人にとって「民族的な」あるいは「国民的な」日であることは間違いないし、日本中の小学校で、1945年8月15日に大日本帝国政府はポツダム宣言を受諾して降伏したって教えられていることに反対もしないけれど、その事実がひろく知られていないことを知っておくことも大切だ、と思う。実際、東京湾内の戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印したのは、9月2日で、VJ-DAY(対日戦争記念日)が9月2日であることも多い。もちろん、8月15日を「大日本帝国の侵略から解放されたおめでたい日」にしているアジアの国々もあるけれど。
 日にちが少々ずれていることはこの際問題じゃない。そもそも日本人にとっての12月8日が、合衆国国民にとっての12月7日であることは動かしようがない。ある歴史的な事実を受け止めるときに、自分の受け止め方がどこまで普遍的な視点に近づいているか、常に疑ってかかったほうがよい、ということだ。地名、人名にしても然り。歴史を語ることにつきまとう危うさを棚上げして、歴史を語ってはならないだろう。まして排他的な考え方で子どもたちに歴史を教えるべきではない。伝統的、進歩的、あるいは自虐的といったレッテル貼りにあまり意味はない。子どもたちが身につけなければならないものは、硬直した歴史観ではなく、未来に対する洞察力を養うにたる柔軟な歴史的認識力なのだから。